2019年08月11日

心の中の娘と共に:(43)

4年ぶりの花火
 8月3日、今年もちかくの荒川で「花火大会」が行われました。
 娘と暮らすようになってから亡くなる前年まで、ずうっと二人で、ときには友人を交え、花火を楽しんできました。住んでいる部屋が13階で、ベランダに出ると、目の前に花火が見えました。音も大きくて、建物全体が揺れるような気がました。花火の日の夕食は決まって焼きそばとビールでした。早めに用意して、食べながら「ドカーン」とくるのを待っていました。その後、今住んでいる8階の部屋に移りましたが、こちらに住んでからも、娘の部屋の窓から花火は見えました。
 2016年の、荒川の「花火大会」は、娘が入院していましたし、私も病室に泊まりこんでいましたので、見ることができませんでした。それでも、病院から両国の花火が見えるかもしれないと思いたち、花火の当日の昼家に戻り、焼きそばを作って病院に戻りました。結局両国の花火は方角違いで、見ることはできませんでしたが、娘は少し焼きそばを食べて、花火の日の雰囲気を味わってくれました。
 ある日、隅田川の見える病室から、遠くのほうで打ち上げられている花火が見えました。音は聞こえませんでした。それを眺めながら、誰の歌だったか覚えていませんが「音なく開く 遠き花火は」という言葉を思い出していました。
8月3日というと、思い出すのが歌人中城ふみ子です。64年前のこの日、中城ふみ子は札幌の病院で亡くなりました。31歳8か月の人生でした。
 渡辺淳一著「冬の花火」という中城ふみ子を描いた小説があります。40年ほど前に購入したものですが、あらためて読んでみて、やはり、この主人公に心惹かれるものがありました。
 娘バルを同じ「乳がん」で亡くした私には、中城ふみ子の入院から死に至るまでの心と体の痛みの日々が、娘との日々に重なって、以前読んだときよりも、はるかに中城ふみ子に近づいた感じがしました。彼女の歌も、より理解できたような気がしました。
花火にちなんで中城ふみ子の歌一首
  音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
 歌の意味にはここでは触れませんが、中城ふみ子の短くも激しい生き様を感じ取れる一首だと思います。ちなみに、最近の人の解釈に、「花火にすっかり心を奪われた様子を歌っています」とありましたが、それを目にした私は、作者が言いたいことを、読者がきちんと読み取ることの難しさを垣間見た気がしました。

 娘が亡くなってからの、2017年、2018年は、例年どおり花火の音がしても、私は無視するようにして、泣きながら花火が終わるまでを耐えていました。何年にもわたって、娘と楽しんだ花火が、一人になってからはこんなにもむなしいものに変わるとは、思いもかけないことでした。
 今年は、花火が始まってからしばらくは、パソコンで遊んでいましたが、ふと娘も見たがっているかもしれない、と思い立って、娘の部屋に入って窓を開け、娘の遺影と一緒に4年ぶりの花火を見物しました……。
                      
                       
(2019年8月11日)
                     

posted by ジャン吉 at 09:28| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月20日

心の中の娘と共に:(42)

蚊帳
 高田浩吉の「伝七捕物帖」(1959)という映画をテレビで見ていましたら、蚊帳を吊っている場面が出てきました。「懐かしい!」と思わず大きな声をだしてしまいました。
 時代劇はよく見ているのですが、これまで、ほとんど蚊帳を吊っている場面に、出会ったことがなかったのです。あるとき不思議に思い、ネットで調べてみましたら、江戸時代には庶民の間にまで普及していたとのことでした。が、庶民のほとんどは長屋住まいらしかったので、長屋には蚊があまり出なかったのかな、と思ったりもしていました。あるいは、一般の人には値段が高くて手が出せなかったのかも、とも思っていました。
 「伝七捕物帖」の映画では、伝七のおかみさんが使っていました。岡っ引は決まった報酬が無く、おかみさんに商売などやらせて収入を得ていた者が多かったそうですが、伝七のおかみさんに商売などの様子はなく、それでも蚊帳を使っているということは、やはり庶民でも手の届くものだったのですね。長屋住まいに蚊帳が出てこなかったのは、部屋が狭いことと、煮炊きの窯の煙で燻されて、蚊がいなかったことも考えられます。
 
 私の育った実家では、蚊帳は必需品でした。庭が広くて、木々が多く、家の片側には2メートルぐらいの幅の川も流れていましたので、蚊の出やすい環境だったからだと思います。
 蚊帳は、全体が緑っぽい色に紅い縁取り。各部屋の四隅のなげしにS字型の金具のフックがかけてあり、そこに吊るしていました。
 夏が近づき、蚊の出る頃になると、毎日夜は蚊帳の中で寝ることになります。これが私達子供にとっては、別世界に迷い混んだような嬉しさで、はしゃぎまわります。そして、何度も蚊帳から出たり入ったりするので、蚊を入れてしまい、しょっちゅう叱られていました。
 叔母(父の末の妹)の子供の頃には、暗くなる頃、蛍を捕らえに出かけ、捕らえてきた蛍を蚊帳の中で放ち、楽しんだそうです。蛍を捕らえに出かけるときには、いつも祖父(叔母の父)が「暗闇で光っているからと言って、ヘビをつかむんじゃないよ」、と言ったそうです。ヘビの目も闇に光っているので、間違えて噛まれでもしたら、との親心からだと思います。
 蚊帳の使用はいつ頃まで続いたかは覚えていませんが、中学生になった頃にはもう使っていなかった気がします。 
 その頃の実家は台所が広く、いろりが切ってありました。そのいろりで、蚊よけのために、ヨモギや杉の葉を焼(く)べて、くすぶる煙で蚊を追い払っていたことも覚えています。台所は煙で蚊を追い払い、寝る部屋は蚊帳で蚊を防いでいたのですね。
 テレビの画面から、祖父母、父母、兄弟と、家族がそろっていた頃の、懐かしい思い出に繋がりました。
近況あれこれ
 4月から、ボランティア団体に参加させて頂き、外国人に日本語を教えています。週一回ですが、日本語初心者へのマンツーマン指導ですので、それなりの準備も必要です。幸い、教える相手は中国の方ですので、若い頃習った中国語が役に立つかな、と思って担当させていただいたのですが、初心者では、日本語での説明は相手に解ってもらえないので、説明のほとんどを日本語と中国語併用でしなければならないことに気がつき、ちょっと焦りました。
 それでも、相手は若くて学ぼうとする気持ちが強い人ですので、覚えも早く、最近は少しずつ話ができるようになりました。とは言っても、新しい言葉や会話を教えるときには、どうしても中国語併用になりますので、そのための準備で週一日は時間を費やしてしまいます。
 また、日本語教師の経験がないので、7月には区役所主催のセミナー、8月には「日本語ボランティア研修講座」受講の予定もあり……。
 というようなわけで、時間の余裕がなく、8月のブログ更新はお休みさせて頂くかもしれません。いつも読んでくださっている皆様、ありがとうございます。

                 
(2019年7月20日/次回更新は未定)

posted by ジャン吉 at 13:55| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月06日

心の中の娘と共に:(41)

白山神社
 私は、退職してからヨガに通い始めました。運動嫌いでも、少しは日々老いゆく体をいたわる何かをしなければ、との思いで始めたのですが、もう17年目に入りました。
 ヨガ教室は、文京区の白山という町の、公民館のようなところを借りて毎金曜日に開催しています。ヨガは11時半に終わります。終わった後はいつも近くのそば屋「戸隠そば満寿美屋」に寄ります。食べるそばは、冬はきつねそば、夏はもりそばか冷やしきつねそばです。
 6月のある日、いつものようにヨガの帰りに「満寿美屋」に入りますと、結構混んでいたのです。年中金曜日のお昼に寄りますから、だいたい客の入り具合は分かっていました。ところが、この日は何となく雰囲気が違う感じがしました。右隣りの席の、老夫婦が食べているそばを見ますと、天ざるです。平日の昼に、そばを食べにくる夫婦は余り見かけません。ところが、今日は両隣りの席ともご夫婦です。それに、この店でいちばん値の張る天ざるを、左となりの席のご夫婦も注文。ちなみに私は16年以上も、毎週のように寄っていても、いちども天ざるを注文したことがありません。
 一緒にいたヨガの仲間と「いつもと様子が違うわね」と話しました。顔なじみの店の従業員も、立ち話をする暇もなく、忙しそうにしています。入り口付近には待っている人も見えたので、私達も食べ終えるとすぐに席を立ちました。そして外に出ると、その理由が分かりました。すぐ近くにある白山神社で、「あじさいまつり」が行われていて、その流れのお客さんがそば屋に寄ったということだったのです。
 私は、若い頃、職場が近いこともあって、このあたりに10年ほど住んでいたことがありました。近所なので、白山神社の存在は知ってはいましたが、一度も足を運んだことがありません。時代小説を読むことが多くなったこの頃、白山神社もしばしば小説の中に出てくるので、そのうち寄ってみようかな、とは思っていました。
 最近読んだ小杉健治の『遠山金四郎が消える』という小説にも「闇に沈んでいる加賀前田家の上屋敷表門を過ぎると、追分で中山道と日光御成街道とに分かれる。金四郎は左の中山道に入る。白山権現も闇に隠れ、やがて巣鴨を過ぎた。」という場面が出てきます。
 加賀前田家の上屋敷表門とはご存じ東大赤門で、追分は、農学部前にあり、その二手に分かれる道の角には高崎屋という酒店があったと思います。大学は私の職場でしたから、小説の場面もはっきり浮かんできます。追分の左の中山道(旧)を10分ぐらい歩くと、白山御殿大通り(旧)にぶつかります。通りの左側には白山神社(白山権現)が見えます。「戸隠そば満寿美屋」は白山御殿大通りと中山道の交わるあたりの角にあります。

 一緒に食事をしたヨガの仲間に、白山神社に寄ってみたい、と言いますと、付き合ってくれました。
 門から入り、境内のあちこちに咲いている紫陽花を見て回りました。境内が思っていたほど広くなかったのは、意外でした。天歴2年(948年)に、石川県の一宮白山神社から勧請(かんじょう)を受けたといわれるこの神社も、本郷から小石川、そして今の場所に移ってからさえ、400年以上も経ているのですから、狭くなったのは、時代の流れのなかでの結果かもしれません。私が常時見ている嘉永6年板(1853)の『小石川・谷中本郷絵図』(複製)では、白山御殿大通り(旧)に面したところからが、神社の敷地になっているのですが、現在は、大通りからだいぶ奥に入ったところに門があるのです。160年の間にさえ、これだけ狭くなっているのです。ですから、時代小説などで読む白山神社の賑わいは、今の狭い境内に身を置いていては、なかなか想像することは困難です。
 やはり私は、小説の中の白山神社だけを、心にとどめておけば良かったかな?と少しばかり後悔しました。

(2019年7月6日/次回更新予定7月20日)
posted by ジャン吉 at 10:20| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする