2018年03月18日

心の中の娘とともに:(9)

私と娘の哀歌
 高村光太郎の詩「レモン哀歌」を知ったのは高校生の頃でした。「高校コース」という雑誌を愛読していて、その文通欄で知り合った、九州の男子高校生からの手紙で知ったのです。彼は画家志望で、手紙のほとんどに絵がいっぱいでした。私も絵が好きで、十代の頃は漫画家になるのが夢でもありました。が、彼の絵を見て、そのレベルの高さに脱帽。あっけなく私の漫画家の夢はくずれ去ったのでした。彼はまた詩も好きで、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に載っていた「レモン哀歌」を気に入り、私にも送ってくれました。光太郎と千恵子の「愛」の世界に私も魅せられました。その後、彼も私も、それぞれの夢を抱いて上京。

 その数年後、私は教職の単位を取得するために、都内の高校で2週間の教育実習をしていました。その時に担当したのが「レモン哀歌」でした。詩が好きなうえに、高校生の頃から十分に鑑賞した「レモン哀歌」を教えることは、私にとってはラッキーな実習でした。生徒は、実習生を試そうと知恵をしぼって質問してきます。私がそのすべてに答えますと「畜生…」と生徒は悔しがるのでした。二十代前半の私が思っていた光太郎と千恵子の関係は、単純に「愛」でした。ですから生徒の質問にも答えることができたのでしょう。でも、その後の長い時を経て、今高校生に「レモン哀歌」を講義しろと言われれば、今の私には、詩の背景にある、単なる「愛」以上のものを生徒に理解させる自身はありません。
 実習が終わったときに、高校の実習担当の先生が「あなたは教師に向いています。あなたならどこにでも推薦します」と言ってくださいました。
 でも、私は教師の道を選ばずに、図書館司書として定年まで勤務しました。大学に勤め始めたころは、文学部の学生のための語学教室で働いていました。ところが、尾崎盛光事務長が何度も私を呼び出して「あなたには図書館が向いている。図書館に移りなさい」と説得してくれたのです。私は図書館に移動し、司書の資格も取得。事務長のおかげで私は司書として退職まで過ごすことができました。尾崎事務長は学生の就職のための面接も担当していましたので、今思えば、適材適所の観点からの判断だったのだと思います。私の、数少ない尊敬する上司の一人です。
 話が逸れてしまいましたが、「レモン哀歌」に戻ります。
 娘バルと一緒に暮らし始めてから、時折「レモン哀歌」が浮かんでくることがありました。この詩のどこかで娘と重なる部分があったのでしょうか。
 入院した娘と一緒に病室で過ごし、亡くなって遺骨で帰宅し、遺影とともに毎日生活していると、「レモン哀歌」がまた思い浮かんできます。でも、それは私とバルとの「哀歌」です。
 そんなにもあなたはウバ(葡萄)を待っていた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとった一つぶのウバ(葡萄)を
 あなたのきれいな歯が音なくかんだ
 あなたの青く澄んだ目がかすかに笑う
 わたしの手を握るあなたの力の弱弱しさよ
 あなたの肝に病(やまい)はあるが
 こういう命のせとぎわまでも
 バルはかわらぬバルとして
 わたしに愛をかたむけ続けた
 それからひと時
 小さな声の深呼吸を一つして
 あなたの呼吸はそれなり止まった
 写真の前にさしたバラの花かげに
 青くひかるウバ(葡萄)を今日も置こう
 高村光太郎さん、ごめんなさい。勝手にパロディ化して。でもふざけているわけではありません。今でも浮かんでくるのは娘の最後の姿です。生きていた頃には想像もできない、死に顔です。顔の筋肉が落ちて、永久の眠りについても目は半分開いたまま、口も閉じないままです。それはまるで、私には、最後まで生きようとしている娘の、意思の表れのようにも見えました。ウバ(葡萄)は入院中娘がいちばん多く食べた物です。特に、食事があまり取れなくなってからは、朝食も、ほとんど葡萄何粒かが主食のようなものでした。葡萄をポルトガル語で「ウバ」と言うのも、26年娘と暮らしていて初めて知りました。娘の最後の食事もウバ(葡萄)でした。
 娘の死から、私の心のなかで「レモン哀歌」は私と娘バルの「哀歌」に変わりました。
(2018年3月18日)

posted by ジャン吉 at 10:34| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

心の中の娘とともに:(8)

誕生日
 3月4日、75歳になりました。朝、生前娘からもらった誕生日のカードが3枚だけ見つかりましたので、娘の遺影の前に飾りました。
 娘のがんが転移してから間もなくの、2012年のカードには「ママエ、今日、大事な日ですね。おかげ様で平安の中で起きられました。ママエ、いつも心からありがとうございます。心からご健康をお祈り申し上げます。バル」と書いてあります。自分が命に係わる病気なのに、私の健康を心から思っているのです。
 翌2013年には「ママエゼィンャヘ お母さま、心からお誕生日、おめでとうございます。ずうっと ずうっとお元気でいて下さいね。バルとプピ、ムーミンより」と、やはり私の健康を気遣っています。もう1枚は、動物の絵がいっぱいのカードに「かあちゃん、いつもどうもありがとう Forママエ From私達andバル」とありました。大抵深紅のバラの花とカードでした。
 26年もの間、私の誕生日には必ず祝ってくれたバル。長い間ありがとうバル。これからも誕生日にはバルからのカードを出して、バルからの言葉を心に言い聞かせますね。
 昼は散歩に行き、帰りに図書館で本を3冊借り、生協に寄り買い物し帰宅。昼食は茹でそば、夕食は生協で買った海鮮を主菜に。一人で飲む習慣はないので酒無しの誕生日の夕食。横浜で看護師をしている茜ちゃんから「誕生日おめでとう!」のメール。娘のいない誕生日は、平日と変わらぬ静かな一日でした。

友だちの誕生日
 私の誕生日の二日前、認知症の友だちのところにお見舞いに行きました。彼女は一年遅れの3月2日生まれ。若い頃、何度か二人で誕生日を祝ったことがありました。
 3月3日はお雛様の日、女の子の日ですが、私も彼女も女の子の日を外れた日の誕生ですから、「さもありなん」とお酒を飲みながら笑いあったものでした。
 ホームの部屋に入ったら、彼女は眠っていました。私は傍らの椅子に座り、本を読みながら、彼女の目が覚めるのを待っていました。まもなく彼女の娘さんも来て「眠っているなんて珍しい」とのことでした。
 一時間ほどして目覚めた彼女は、娘さんと私を見て「来ていたの?」とベッドの上から笑顔を見せました。瞬間、私は娘バルのことを思い出しました。入院中の娘も、目が覚めた時に友だちが待っているのを目にすると、心から嬉しそうに笑顔を見せたものです。
 友だちは、わたしが持参したひな祭り用の小さな花束に「きれい!」と声を上げてくれました。彼女の娘さんは私の誕生日も覚えていて、私にまでプレゼントをくれました。それから、ホーム主催の誕生祝いのお茶の会に、他の入居者と共に、私と彼女の娘さんも参加しました。朝、彼女がバナナを刻み、ホームの従業員が作ったというケーキと紅茶がテーブルに並びました。他の入居者の方は、皆さんかなりの年配の人ばかりで、あまり話をしませんが、一緒に友だちの誕生日を祝ってくれました。
 この日の彼女は笑顔が絶えませんでした。

(2018年3月5日)
posted by ジャン吉 at 11:19| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする