娘が亡くなってから二年。速いものです。
最初の頃は、失った事実の重さに押しつぶされそうな日々でした。娘の遺影に向かって語りかけ、泣いてしまう毎日が続きました。娘の部屋はまだ娘が暮らしていたままにしています。その娘の部屋の、娘のベッドに娘がいて、「ママエ、ありがとう」、「ママエおやすみなさい」……、と言ってくれた日々がもう戻ってこないなんて、私は認めたくなかった。自分は、この現実から立ち上がれるのだろうか、とも思いました。
亡くなって1年目の昨年の祥月命日には、闘病記『ホーザ ブラジルからのおくりも:日本でガンと闘ったバルの記録』を出版。出版までの日々は、悲しみの日々から、少しは遠ざけてもくれもしました。それでも、娘を思って泣かない日はありませんでした。
親として、娘を守り切れずに先に死なせてしまったことへの、自分自身の心の負担が軽くなる日は、自分が生きている限りは、決して訪れることはないだろうと思っています。
二度目の祥月命日の今日、朝いちばんに「祥月命日、マルちゃんによろしくお伝えください」というメールを茜ちゃんからいただきました。また、丸の内の職場の近くのブティックで知り合った娘の友達の一人からは、白いバラの花が贈られてきました。事前に電話を頂いたときに「マルチニさんともう少しお付き合いしたかったのですが、いつも○○さんと一緒だったので遠慮しました」、と言っていました。この方はおとなしい感じの人ですので、その気持ちがよくわかります。娘がこの方の気持ちを知っていたなら、喜んでお付き合いをしたことでしょう……。
昼は、カンツオーネの会の友達と、近くのイタリアンレストランで、娘を偲んでワインでひと時を過ごしました。レストランから戻り郵便箱を開けると、以前娘に聖書の手ほどきをしてくれた方の、ご両親からのお便りが届いており、亡くなる一年前に娘と私が遊びに行ったときの思い出が綴ってありました。
私の心の中ばかりではなく、娘を知る皆さんの心の中にも、バルが存在していることを、とてもうれしく思いました。
近況あれこれ
つゆ草
鳥が種を運んできたのか、いつの間にかベランダの花の鉢に、故郷でとんぼ草と呼ばれていたつゆ草が数本育ち、小さなブルーの花を咲かせています。
ある時期から、体力が落ちて散歩に行きたくとも行けなくなった娘に、私は野の花を手折ったり、木の実を拾ったりしてきて、季節の変化を味わってもらっていました。つゆ草もよく手折ってきて、陶器の楊枝入れに挿して、花が閉じるまでのわずかな時間を楽しんでいました。
そのつゆ草が、娘のいないわが家のベランダに育ち、娘の目の色を思い出させるブルーの花を毎朝咲かせています。
(2018年10月18日)