2018年04月18日

心の中の娘とともに:(11)


母を探す娘の原点
「人間関係の悩みの原因の全ては幼少時からの親子関係からきています。
 厳しい家に育った人が、
 優しさや温もりを求めて 
 愛に餓えた自分の心を埋めるがごとく、
 一生懸命に 
 自分を愛し 
 自分を承認し 
 自分を受け入れてくれる「人」を探します。」

 親子関係に関する文を拾い読みしていて、上記を目にした時に、娘バルの私という「母」への「思い」がより理解できたような気がしました。
 普通ならすれ違って当たり前の出会いなのに、目には見えない何かを頼りに、私のところまでたどり着き、必死に訴えたバル。あの時私が受け入れなかったなら、と思うだけでも涙が止まらなくなります。
 闘病記「ホーザ:ブラジルからのおくりもの:日本でがんと闘ったバルの記録」に、私とバルの親子関係を書いた「母と娘」という一文が載っています。誰もが認めるバルの、私という母への思いはどこからきているのかを、少しでも理解したいと思い書いた一文です。
 「母と娘」を書いてから半年を経て、最近冒頭の文を目にし、ここらあたりがバル自身も気づかないままに行動していた「母」を探す原点だったのかもしれない、と思いました。

遠い日の祝言
 CSで時代劇を見ていると、祝言の場面がしばしばでてきます。今とは違って、昔はほとんど自分の家で行なっていたのですね。
 私が子供の頃にも、祝言は嫁と婿の家で行われていました。私が覚えている生家での祝言は叔母(父の妹)の時だけです。嫁に出す側ですから、宴会もそう長くはなかったと思うのですが、8歳頃のことですから、記憶にははっきり残っています。
 当日、家の中は近所から手伝いに来ている人で溢れ、私たち子どもの居場所はなく、家の外でうろうろしているだけでした。それでも嬉しかったのは、普段の生活にはない賑わいと匂いです。当時縁側にはガラス戸も無かったので、来客に出す宴会料理と燗酒の匂いが障子の外まで漂ってきて、子供心を躍らせたものです。襖を取り払った座敷での宴会には、親戚の叔母さんの踊りや、めったに歌など口にしない祖父の歌う気仙音頭なども聞こえてきます。私は、この日のために張り替えた障子に、穴を開けて宴会の行なわれている座敷の中を覗きたいと何度思ったことか……。
 大人になって酒場に出入りするたびに、酒場の匂いと客のざわめきが、遠く過ぎ去った祝言の日を思い出させるのでした。あの時嫁に出た叔母も、昨年亡くなったそうです。

近況あれこれ
花見
 私の住んでいる建物の両側に桜並木があります。右側の方の並木は、細長い公園のようになっており、毎年桜まつりも行われています。花はほとんどソメイヨシノです。娘と一緒に毎年ここで花見をしていました。最後に二人で桜を見たのは二年前の3月末です。
 左側の桜並木は、車も通る道の両側なので、花見はできません。駅やスーパーへの道でもあるので、毎日のように通るのですが、これまであまり気にもとめませんでした。今年初めてこの並木の桜の種類に気が付きました。いちばん早く咲くのは色の濃い桜です。その次には白い桜で、緑の葉もほとんど一緒に出ますので、白い花が一層白く見えます。その後に数本のソメイヨシノが咲き、次にはまたピンク色の少し濃いめの桜が咲きます。そして最後を飾るのは、何種類かの八重桜です。私はソメイヨシノ以外の桜の花の名前を知りませんが、以外に気を配って植えているのだなあ、と思いました。
 娘と二年前に花見をしてから、娘を思い出すのが辛くて、花見をすることはないだろうと思っていました。でも、花見のざわめきが聞こえるある日、娘のカンツオーネの友だちに声をかけ、二年ぶりの花見をしました。座には缶ビールと焼き鳥、焼きそば、そして娘の遺影。
バラの花とタケノコ
 今日は娘の18回目の命日です。昨日妹が娘の好きな深紅とピンク、黄色のバラの花を届けてくれました。タケノコも一緒に貰ったので昨夜下茹しました。今日のお客様にタケノコとガンもの煮物と、タケノコご飯を食べてもらう予定です。

(2018年4月18日)
posted by ジャン吉 at 10:50| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

心の中の娘とともに:(10)

鍋じまい
 らでぃっしゅぼーや(有機野菜の会)のカタログに、鍋の季節もそろそろ終盤ということで、鍋セットがいろいろ載っていました。それを見ながら、昨年同様今年も注文しないままに終わってしまったなあ、と寂しく思いました。
 娘と二人のときには、鍋をよく食べました。「古処鶏水炊きセット」、「若鳥ちゃんこ鍋セット」「鴨鍋」「豆腐屋さんのおでん」等々。食事療法をするようになってから、牛豚は食べなかったのですが、それ以外はほとんどの鍋を食べました。今は、土鍋は棚に収まったままです。
 そういえば、娘が亡くなり私一人になってから、ほとんど食べなくなったものに「鶏」があります。娘が好きだったことと、牛豚が食べられなくなってからは、肉といえば鶏ばかりだったので、その反動かもしれません。戦時中、さつまいもばかり食べていた人が、戦後何年たってもさつまいもが食べられないということと同じようなことかもしれませんね。

鍋焼きうどんの具の卵
 鍋で思い出したことがもう一つ。そば好きの私が、毎週ヨガの帰りに寄る文京区白山のそば屋の「鍋焼きうどん」の話。冬の寒さの中では、食べたくなる一品です。ただ、麺なら何でも好きな私ですが、どちらかと言えばそばのほうが好きなので、「鍋焼きうどん」は、季節に一度か二度食べるだけです。この「鍋焼きうどん」、ネギ、干ししいたけ、かまぼこ、油揚げ、卵など具の多いのも好きな理由の一つですが、問題は卵です。以前は、温かい汁に卵が割り入れてあって、お客の前に運ばれてくる頃にはトロトロになっていて、卵の溶けた汁とともに食べるのが、私の好みの状態だったのです。ところが、昨年から、割り入れ卵が「卵焼き」に変わったのです。これでは大げさに言えば、鍋全体の味が変わったとも言えなくありません。それで、もうこの店の「鍋焼きうどん」を食べることはないかなあ、と思いました。でも、やはり、一緒に行った友だちが注文すると、他のお客が気づかないのなら、私一人の好みなのかもしれないと思い直し、今年も一度だけですが食べてしまいました。
 持ち上げると垂れるぐらいの、とろりとした状態の黄身の味が、いちばん私の好みなのです。毎朝目玉焼きを作りますが、火にかけ過ぎて黄身が硬めですと、白身だけ食べて、硬い黄身は捨ててしまうほど、こだわってもいるのです。
 そういえば、娘は、卵料理はよく食べましたが、生卵だけは一度も食べたことがありませんでした。メキシコの友だちも生卵はダメと言っていましたし、中国でも食べないと聞いていましたから、生卵をよく食べる国は日本ぐらいなのでしょうか。

Kちゃん一年生終業
 3月末に二度ほど、学校帰りのKちゃんを、我が家で預かりました。姪(Kちゃんの母)が保護者会等の用事で在宅できなかったからです。
 我が家に来ると、Kちゃんは宿題を済ませます。算数と国語です。国語の音読を聞いていると、教科書の中身は私達の頃とは異なって、ほとんど短い物語風になっているようです。ですから聞いていて、大人にもその面白みが伝わってきます。「おもしろいね」と言うと、Kちゃんは張り切って読んでくれます。算数はまだ足し算と引き算だけですが、問題の出し方に工夫があるのか、私にも「?」と思うことがあり、一年生の勉強と侮れない感じがしました。
 算数と言えば、私の小学生の頃の通信簿に「計算が速く、そしてよくまとをはずします」と書いてあったのを思い出します。国語は「わかっていても手を上げません」でしたし、音楽は「恥ずかしがって歌おうとしません」でした。Kちゃんは活発な小学生だけど、私はおとなしかったのかなあ……。
 宿題が終わると、お医者さんの問診ごっこです。向き合う位置に椅子を二つ用意し、パソコンに近い椅子にはお医者さん役のKちゃんが座ります。患者役の私にいろいろ質問し、その都度パソコンに向かって入力するしぐさをするのです。医院に行くたびに覚えてくるのでしょうか、問診もベテラン医者並みです。以前は娘バルが相手でしたが、今は私です。7歳、と75歳の遊びです。
 Kちゃんの幼稚園入園の日は、霙の降る寒い日で、バルが心配していました。あれからもう三年が過ぎ、 明日からKちゃんは小学二年生。

(2018年4月5日)
posted by ジャン吉 at 10:38| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月18日

心の中の娘とともに:(9)

私と娘の哀歌
 高村光太郎の詩「レモン哀歌」を知ったのは高校生の頃でした。「高校コース」という雑誌を愛読していて、その文通欄で知り合った、九州の男子高校生からの手紙で知ったのです。彼は画家志望で、手紙のほとんどに絵がいっぱいでした。私も絵が好きで、十代の頃は漫画家になるのが夢でもありました。が、彼の絵を見て、そのレベルの高さに脱帽。あっけなく私の漫画家の夢はくずれ去ったのでした。彼はまた詩も好きで、高村光太郎の詩集『智恵子抄』に載っていた「レモン哀歌」を気に入り、私にも送ってくれました。光太郎と千恵子の「愛」の世界に私も魅せられました。その後、彼も私も、それぞれの夢を抱いて上京。

 その数年後、私は教職の単位を取得するために、都内の高校で2週間の教育実習をしていました。その時に担当したのが「レモン哀歌」でした。詩が好きなうえに、高校生の頃から十分に鑑賞した「レモン哀歌」を教えることは、私にとってはラッキーな実習でした。生徒は、実習生を試そうと知恵をしぼって質問してきます。私がそのすべてに答えますと「畜生…」と生徒は悔しがるのでした。二十代前半の私が思っていた光太郎と千恵子の関係は、単純に「愛」でした。ですから生徒の質問にも答えることができたのでしょう。でも、その後の長い時を経て、今高校生に「レモン哀歌」を講義しろと言われれば、今の私には、詩の背景にある、単なる「愛」以上のものを生徒に理解させる自身はありません。
 実習が終わったときに、高校の実習担当の先生が「あなたは教師に向いています。あなたならどこにでも推薦します」と言ってくださいました。
 でも、私は教師の道を選ばずに、図書館司書として定年まで勤務しました。大学に勤め始めたころは、文学部の学生のための語学教室で働いていました。ところが、尾崎盛光事務長が何度も私を呼び出して「あなたには図書館が向いている。図書館に移りなさい」と説得してくれたのです。私は図書館に移動し、司書の資格も取得。事務長のおかげで私は司書として退職まで過ごすことができました。尾崎事務長は学生の就職のための面接も担当していましたので、今思えば、適材適所の観点からの判断だったのだと思います。私の、数少ない尊敬する上司の一人です。
 話が逸れてしまいましたが、「レモン哀歌」に戻ります。
 娘バルと一緒に暮らし始めてから、時折「レモン哀歌」が浮かんでくることがありました。この詩のどこかで娘と重なる部分があったのでしょうか。
 入院した娘と一緒に病室で過ごし、亡くなって遺骨で帰宅し、遺影とともに毎日生活していると、「レモン哀歌」がまた思い浮かんできます。でも、それは私とバルとの「哀歌」です。
 そんなにもあなたはウバ(葡萄)を待っていた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとった一つぶのウバ(葡萄)を
 あなたのきれいな歯が音なくかんだ
 あなたの青く澄んだ目がかすかに笑う
 わたしの手を握るあなたの力の弱弱しさよ
 あなたの肝に病(やまい)はあるが
 こういう命のせとぎわまでも
 バルはかわらぬバルとして
 わたしに愛をかたむけ続けた
 それからひと時
 小さな声の深呼吸を一つして
 あなたの呼吸はそれなり止まった
 写真の前にさしたバラの花かげに
 青くひかるウバ(葡萄)を今日も置こう
 高村光太郎さん、ごめんなさい。勝手にパロディ化して。でもふざけているわけではありません。今でも浮かんでくるのは娘の最後の姿です。生きていた頃には想像もできない、死に顔です。顔の筋肉が落ちて、永久の眠りについても目は半分開いたまま、口も閉じないままです。それはまるで、私には、最後まで生きようとしている娘の、意思の表れのようにも見えました。ウバ(葡萄)は入院中娘がいちばん多く食べた物です。特に、食事があまり取れなくなってからは、朝食も、ほとんど葡萄何粒かが主食のようなものでした。葡萄をポルトガル語で「ウバ」と言うのも、26年娘と暮らしていて初めて知りました。娘の最後の食事もウバ(葡萄)でした。
 娘の死から、私の心のなかで「レモン哀歌」は私と娘バルの「哀歌」に変わりました。
(2018年3月18日)

posted by ジャン吉 at 10:34| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする