2018年01月18日

心の中の娘とともに:(5)

今年は
 正月や冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし(一休宗純)
 今年の賀状のことばです。初めてこのことば(歌)を実感しました。

 今年75歳。間もなく老人医療制度の、後期高齢者という枠に追い込まれます。シルバーパスで、根拠のはっきりしない差別(1000円と20500円負担)を疑問に思ったのですが、後期高齢者も市町村民税課税所得(課税標準額)が145万円以上の被保険者(被保険者の約6%が該当)は「現役並み所得者」に区分され、医療給付において負担割合が現役並み(3割負担)となるそうですので(94%は1割負担?)、ここでも145万円で線引きされて、ほんのわずかな差で医療費を3割払わなければいけない6%の人の嘆きや不満が聞こえてきそうです。75年も生きて更にこの先を3割負担し続ける6%。私には国の老人いじめにしか感じられません。6%を94%と一律にできないどんなからくりがあるのでしょうか。
 政治にも政策にも疎い私ですが、年金生活者となってからは、直接身に降りかかることには、少しは関心を持つようになりました。だからといって何か行動を起こすことなどほど遠く、今現在の私の頭は、娘の入院等で二年近く休んでいた麻雀を、いつから再開するかでいっぱいなのです。

くるみ餅
 せめて今日は憂さを忘れてお正月らしく、故郷のお正月に欠かせなかったくるみ餅の話をしましょう。
昨年暮れに、妹が東北自動車道の長者ヶ原サービスエリアで、お土産に「くるみ餅」を買ってきました。幼い頃から慣れ親しんだ懐かしい味がしました。
 もの心ついた頃から、お正月が楽しみだったひとつにはこの「くるみ餅」があります。
家の裏に小川があり、その川端にクルミの木がありました。クルミの外皮(仮果)が黄色くなってくると木から落として庭の片隅に土をかぶせて放置しておきます。どのぐらいの期間かは覚えていませんが、外皮はほとんど形が無くなっており、それを洗ってクルミ(核果)だけにして乾かして保存しておきます。
 お正月やお盆には必ずくるみ餅を作ります。保存しておいたクルミを木の台に乗せて金づちで割ります。割れた固い殻の破片と実が混じっているので、そこから実だけを選んで取り出すのはとても根気のいる作業であり、私たち子どもの仕事でもありました。
 実だけになったものをすり鉢で最初はつぶして細かくします。それから20分ぐらいすりますが、途中少しずつお茶を入れてのばして、それに醤油と砂糖で味付けし、最後にとろりとしたら出来上がりです。これに、一度焼いてからお湯に通した餅を入れて食べます。すっている間にも、私は我慢できずにすり鉢に指を入れて舐めてみて、母に何度も叱られたことを覚えています。
 今回お土産に頂いた「くるみ餅」の餡は、母の作るものと比べるとクルミ独特のアクが弱い気がしました。クルミの違いからくるものかと思います。
 「くるみ餅」の話を東京育ちの友だちに話しましたら「どこでも売っているじゃない」と言われ、詳しく話してもらいましたら、クルミが入っているお菓子の餅だったのです。私の「くるみ餅」も、友だちがイメージするまでは少し時間がかかりました。それで私は、もしかしたら、岩手の一部の地方だけのものなのかもしれない、と思い、ネットで調べてみました。すると、やはり岩手県の気仙地方だけのものと分かりました。今回お土産に貰うまで、実家以外では食べたことが無かったのも納得できます。それにしても75年生きてきて、気が付かなかったことにも驚きですが、気が付いた今は作ってくれる母がいないことに寂しい気持ちにもなりました。
 故郷大船渡のお菓子屋さんが、年末のみの注文販売で「くるみ餅(の餡)」を扱ったら真っ先に注文するのですが……。
 娘バルも私と一緒に何度も大船渡でお正月を過ごし、くるみ餅を食べました。今日は15回目の月命日です。入院時に病室で使った小さなすり鉢があるので、くるみの実が手に入ったら我が家で作ってみます。バルも楽しみにしていてね。
             
(2018年1月18日)

posted by ジャン吉 at 10:54| Comment(1) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

心の中の娘とともに:(4)

消えた図書室 
 年末のある日、聖路加国際病院に行ってきました。病院(新館)の2階にある図書室に、娘バルの闘病記を寄贈するためです。ところが、2階の図書室まで行くと、大学(旧館)のほうに移ったという掲示が出ていました。旧館への長い廊下を通り、チャペルの前も通り過ぎたところに図書室は移っていました。ボランティアの方に本を渡してから、移った理由を聞いてみました。以前は病院の中でも便利な場所にあり、患者さんやその他の人たちも気軽に利用できたのに、こんな奥に移ったら一般の人の目には触れないので利用者も限られるのではないか、との私の疑問に、「図書室なので病院のほうではなく、大学(旧館)に移したとのことのようです」とボランティアの方は余り詳しくは知らない様子でした。蔵書は一般的なものだけのようですから、大学のほうに移す意味が薄いと思うのですが、もしかしたら別の目的があるのかもしれません。なんだか聖路加病院の利用者(患者や一般の人)にとって優しさの感じられる部分が一つ消えた感じがして寂しくなりました。日野原先生が存命でしたら、とふと思いました。
 それからまた病院(新館)に戻り、2階のブレストセンターのソフアに、娘といつも座っていた場所が空いていたので座り、持参のお茶で一休み。その後エレベーターで6階に上がり、屋上庭園に出てみました。娘が入院していた時に何度も車椅子で散歩に来た場所です。最後の散歩は亡くなる6日前の水曜日でした。「お花が咲いているよ」と私が言うと娘が「もういい!」と不機嫌に叫んだのです。苦しかったのだと思います。それを口にしない娘でしたが、本当に辛かったのだと思います。思い出すと涙が溢れてきました。
 庭園の後は緩和ケア病棟のある10階に上がり、そこのロビーで30分ばかり隅田川を眺めました。娘とも何度もこのロビーから眺めた景色です。あれから1年と2か月ぶりに来てみた10階ですが、緩和ケア病棟の中を訪ねる勇気も無く、ロビーだけでしばし思い出にふけりました。
 1階に戻り、売店に寄ってみると、病院に泊まり込んでいるときに、私の主食となった玄米おにぎりを見つけたので4個買いました。それから1階ロビーでコーヒーを飲み、聖路加病院を後にしました。

近況あれこれ
正月
 大晦日は、昨年同様友だちと三人で過ごしました。そして、一日(ついたち)は穏やかな天気でしたので、泊まってくれた友だちと散歩に出ました。娘と数え切れないくらい散歩した公園まで行きますと、寒紅梅の花が、過ぎ去った日々と同様にほころびはじめていました。
 三日には茜ちゃん夫妻が中国料理を山ほど抱えて訪れました。昼食後、お茶を飲みながら娘バルの話や、中国の話などをして過ごしました。茜ちゃんが、バルの勤めていた神戸のコーヒー博物館に行きたいけど一緒にどうですか、と声をかけてくれました。私はまだ無理です、と答えました。まだ気持ちの整理のつかないことが多いのです。
 四日は、日本橋まで出かけました。自由渡航のできなかった1978年6月に、図書館員や研究者の団体「友好の翼訪中団」の一員として、中国を訪問したことがあります。そのときからの知人のお誘いで、日本橋あたりの七福神をめぐる行事に参加しました。彼女は一まわり上の羊年生まれですので、今年87歳を迎えるのですが、七福神めぐりで休むことなく1万歩近く歩いたにも関わらず、全く疲れた様子を見せなかったことに驚きました。最も、今でも日本図書館協会の委員を担ったり、留学生のお世話をするボランティアを続けたり、と活躍する日々を送っているとのことですから、そう驚くことではないのかもしれません。12年後の私にも、このような元気があればいいなあ……と思いつつ、20年ぶりに会った彼女と別れました。
 そして今日は正月五日。ヨガの初日なので、文京区の教室まで出かけました。終わってから、いつもの仲間と昼食を済ませ、私は上野に向かいました。東京都美術館で開催している「日書展」に、友人の書が入選作として展示されているのを見てきました。多くの人の作品を見て、私には書道の素養がないので、鑑賞までには至らないことだけは分かりました。新年早々、一つ学びました。
 
 あっと言う間に正月は過ぎていきます。娘と一緒のときには七草粥もかかしたことは無かったのですが、娘が亡くなってからは昨年も、そして今年も作ることはないと思います。
 今年も、心の中の娘と共に、よろしくお願いいたします。
(2018年1月5日)

posted by ジャン吉 at 15:28| Comment(1) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月18日

心の中の娘とともに:(3)

親心
 妹の同級生の方から、「ホーザ:ブラジルからのおくりもの:日本でがんと闘ったバルの記録」の読了後の感想を付記して、12月2日(土)開催の第33回首都圏さんりく大船渡人会の集いにて参加者にチラシを配りたいというメールを頂いておりましたが、後日妹から聞きましたら、当日150枚のチラシを作成し、会場で配ってくれたそうです。とてもうれしく思いました。そして、一人でも多くの方に読んでもらいたいと願っている当事者であり母である私が、手をこまぬいていることに恥ずかしささえ感じました。
 わたしが行ったことと言えば、図書館関係の知人からチラシが欲しいとの話があり、パソコンで作成して送り、ついでに近所の掲示板にも貼ったりした程度です。その他には、知人に会う度に本の紹介をしていることぐらいでした。
 私と娘の本のために、妹の同級生が行った活動に心動かされて、私も何かしなければ、と思いました。思いめぐらせているうちに、定期的にポストに入っているミニコミ情報誌が浮かんできました。さっそく発行元を訪ねて相談し、一万部を配っているというので、本の広告を載せてもらうことにしました。
 千昌夫という演歌歌手は、私の故郷岩手県の陸前高田市の出身です。彼がデビユーしたての頃、「千昌夫の母親が風呂敷包みを背負ってレコードを売り歩いている」という話が広がったのを聞いた覚えがあります。千昌夫のお母さんは、何とか1枚でもレコードが売れて欲しい、との親心で売りに回ったに違いありません。同じ子の母として、彼のお母さんのような気概が私にあればいいのですが、そこまで踏み切れないでいる自分のふがいなさにいら立ってもいるこの頃です。
ル・レクチェ
 新潟の知人から洋ナシを頂きました。箱を開け、洋ナシを見た瞬間、娘の最後の食事が洋ナシだったことを鮮明に思い出しました。
 前日に吐血し、一晩中母国語でうわごとを言い続けて迎えた朝が、昨年の10月14日金曜日でした。朝食は、私が噛んでからスプーンにのせたごはんを少しと、妹の差し入れのサンマひと口、ブドウふた粒。昼はほとんど眠り続けていました。6時の夕食時に起こして「食べる?」と聞くと娘はうなづき、ブドウふた粒、洋ナシひと口を食べ、水を少し飲みました。その後投薬、7時には眠りに入りました。そして15日(土)16日(日)17日(月)18日(月)の朝亡くなるまで傾眠状態が続き、目を覚ますことはありませんでした……。
マルチニ秋追悼萩花展示会
 昨年の10月までは生きていた娘が亡くなって、今年ももう終わりが目の前です。新しい年になったら、昨年までの娘の思い出が一昨年になってしまいます。それがたまらなく寂しい気がして、新しい年を迎えたくない気持ちです。
 神保町の文房堂ギャラリーで阿部萩花さんの展示会が開催されます。昨年1月にも行ったのですが、その時には娘と一緒に見に行きました。今年は阿部さんから申し入れがあり「マルチニ秋追悼萩花展示会」になりました。本や娘の着物から作ったブックカバーや小物なども展示販売するそうです。

 今日は14回目の月命日です。先ほど、沖縄の友人から生きた車エビが届きました。2年前の12月に頂いたときには、エビ好きの娘が歓声を上げて喜び、「こんなに元気になれたらいいなあ……」とつぶやいたのを覚えています。今日はピンピン跳ねるエビをテープでお皿に張り付けてから、娘の遺影の前に置きました。
 外は雲一つ無い青空です。今年最後のブログになりました。読んで頂いた皆様に、心の中の娘とともに御礼申し上げます。
2017年12月18日
posted by ジャン吉 at 14:16| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする